「大きな声で返事できる人と、できない人、どちらが良いか?」
「学校・幼稚園で先生の話を聞いている人と、聞いていない人、どちらが良いか?」
「お友達を叩いたり、蹴ったりする人と、しない人、どちらが良いか?」
これらの質問をすると、全員、同じ方に手が挙がります。
こういった事例が、「あたりまえ」のことです。
これらは、空手をやっていようがいまいができなければならない事で、空手をやる子ならば、よりしっかりと身に付けておいてほしい習慣です。
特に、基礎クラスの時代には繰り返し話し、「良いと思う方をやる」よう指導しています。
実際、ほとんどのことは、幼稚園の子でも正しい方を選択できますね。
しかし残念なことに、大人になっても「あたりまえ」のことができない人っているんですね。
学校の先生なのに、いじめは黙認、学校の敷地内で喫煙、本来 警察介入レベルの事件の加害者に被害者の住所を教えようとする・・・。
遠い他府県の話ではなく、そんな問題行動のある人が蓮田市の中学校でも、平然と生活指導主任になっていたりして。
それじゃ、学校で問題が起こり続けるのが「あたりまえ」だと。
なんで、そんな輩がのさばるかというと、上司である校長が自己保身に走り、指導者責任を果たさず、問題を隠蔽しようとするから。
生徒の命に関わる問題もあるのに、それらを把握しながら、問題教師を責任ある役職に付けてしまうことは暴挙です。
そこに「正義」はあるのか?
そこに「教育者としての矜持」はあるのか?
と問うても、「あたりまえ」の発想を持たない彼らには全くの無駄。
このように、「あたりまえ」のことができないことは、ダメ人間への第一歩 なのです。
間違ってほしくないのは、多くの先生方は真剣に子供たちのことを考えてくれています。
でも、大きな組織にいると、必ず、自分勝手な発想をする人間が出てくるものです。
その時、身体を張って阻止できるのは、組織の長の力なんですけど、権限のある人が悪いことを悪いと言わない・・・これって、学校内で起きたいじめに、先生が加担しているというケースと根が一緒なのです。
悲しいけれど、毎日流れてくるニュースを見ていると、全国でも同じ傾向なのでしょう。
だから、改めて言いますが、道場生の皆さんは少なくとも「あたりまえ」の事が「あたりまえにできる」ようになってください。
自分の命も、他人の命も大切にできるようになってください。
空手が上手くなる以前に、人間として必要なことですから。
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